一色登希彦/ブログ 

一色登希彦 ブログ / 三重県の小さな町に在住 現在は飲食店に従事 漫画描いてました

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「漫画家のなり方」35

第9章 最初に雑誌に載るまで

   その12 最初に雑誌に載る、いくつかのパターン そのことにどうしても言及したい いくつかも含めて

雑誌に載るべく、漫画を描き上げました。
さて・・・・・・

今回は、少々脱線します。

本項に限らず、本論は「先におおまかに見出しタイトルを構築して、あとから本文を書く」という書き方をしている部分がいくつもあります。
そうすると、最初にタイトルを考えた時点から本文を仕上げるまでに、時差が生じます。
その間に、タイトルが現実にそぐわなくなる、ということも出てきます。

本項も、少しばかり、そうしたところがあります。

正直なところ、「新人の最初の漫画が、雑誌に、どうやって載るのだろう?」と考えた時に、自信を持って「こうだ」と言える状況が、最近、本当に週ごと日ごとにどんどん変化して、そして縮小されています。


併せて、「雑誌に最初の1本を載せるための、そうした苦労や努力は、真っ当なのか?」という疑問を、明確に振り払えなくなっています。

最初の1本の漫画作品を、雑誌に載せる。
その努力が、とても難しい、あるいは限りなく甲斐のないことになってきています。

それでも。
とにかく、ギリギリ、今、まだ、
「新人として新作発表するなら、雑誌にて」という認識が残っているなら、「雑誌に載るにはどうしたらよいか?」を述べるようにします。

気を取り直し、自分がわかる範囲での、最初の1本の漫画の載り方を書きます。

編集者とのやり取り、打ち合わせを経て、1本の漫画をまた描き上げます。
その1本の漫画が雑誌に載るべく、編集者はいくつかの道を探ってくれます。

まず、雑誌や出版社が募集している「新人賞」に再度応募する。
応募する、というか、編集者が預かって、賞に回してくれる。
その「新人賞」で、「受賞作は雑誌掲載」という約束のあるランク以上の章に入賞すれば、雑誌掲載がかないます。

あるいは、よほど出来がよいなら、そして編集者が敏腕なら、そしてタイミングがよいなら、雑誌本誌や、その雑誌の増刊に、新人賞の受賞も何もしないまま、ポンと載ったりするパターンがあります。

……ここまで書いてきて、やはり、どうにも、何とも言えない気持ちになりました。

例えば、上のような「雑誌への載り方」では、漫画を描き上げたあとのその漫画の運命は、ものすごく編集者や雑誌に委ねられます。

すでにお気づきかもしれませんが、担当編集者が「新人賞に回してくれる」というプロセスには、「受賞させてあげるべき」根回しが伴います。
出来レースとまでは言いません。
しかし、「第8章 その9 そのまま雑誌に載る場合」で書いたように、最近は、素で応募した漫画の第1作がそのまま受賞して雑誌に載るパターンがほとんどない。
そうしたことの内情は、こういうことです。

担当編集者が、見いだし、愛した新人さんだけが、担当編集者の連携をもらって、恩義を受けて、「掲載第1作」が載ることになります。
賞に出すまでに、担当編集者は、編集部内の発言権と決定権のある人、デスクとか副編集長とか編集長といった人に、ネームを見せ、助言を求め、
「これなら描き上げれば載せられる」という、保証に近い言質をとって、新人への「原稿にしてオッケー」のゴーサインを出します。

ふたつ目の載り方、つまり新人賞受賞をすっ飛ばしての雑誌掲載の場合も、編集者の部分的能力の優劣が決定的に重要なことになります。
部分的能力、つまり、雑誌の、編集部内の状況を読んで、根回しをして、同僚を出し抜き、企業の社員が企画を通すのと同じ段取りで、自分の「企画としての漫画」を「通す」のです。
そうした時は、本当に、漫画に「企画書」が添えられるのです。
いつからか、そのように、「企画書を添える」という言い方がされるようになっています。

いずれの場合も、編集者の「企画力」「プレゼン能力」が、新人の漫画が雑誌に載るかどうかを左右する大きな要素になっています。

なんだよ「プレゼン」って!?

漫画において「プレゼント」といって良いものは、漫画を描く者が、読んでくれる者にもたらすもの。それだけしかないはずです。
そのプレゼントが素晴らしかったら、読んでくれた人がその感動のしるしとして、お金を払ってくれる。それだけしかないはずです。


少し逡巡しましたが、本項は、自分の目線での自己言及を含めようと思います。
恐縮ですが、お読みになる方は、お付き合いください。

上に書いたような、雑誌に載るためには編集者の力量に頼らなければならない、という「制度」を、プロになる前に、自分も思い知らされてきました。
ならば、システムが現状そうならば、それをも飲み込み、どうやってやり取りの仕方の中に取り入れて、なおかつ「自分でなければ描き得ないもの」を盛り込んで読み手に届けようか、という作業を繰り返しながら、プロとして成立する道を自分は探ってきました。

大学に行きたいなら、「受験勉強」というものがどれだけくだらなくても、それはシステムとして飲み込んでこなして行かなければならない、ということと同じです。
それは、高学歴を得れば得るほど、自身が幸せになれる、周りを幸せにできる、というハナシが有効である限りにおいて、飲み込めるシステムでした。

けれど、こんにち、漫画の経済において、そのようにして編集者の言うことを聞いて、自分が描いた漫画がようやく1本載ること、そののちにその先につながって行くかどうか、それが「漫画のため」になるかどうか?・・・等々。
その点に、自分は、ついに疑問をぬぐい去りきれなくなってしまった、ということです。

自分の仕事場も、漫画家志望のスタッフさんに来てもらっています。
自分のそうしたスタッフさん、あるいは、知り合いの漫画家さんのスタッフさん。
そうした多くの「漫画家志望者」はもちろん、雑誌に漫画を掲載して、漫画家になるべく、精進しています。していない人もいますが。自分のスタッフさんはしています。「努力をやめないこと」が、来ていただく時の条件のひとつなので。
もちろん、本論ですでにふれているように、漫画家志望者本人たちの力不足、努力不足、自覚の足りなさ等々、「漫画家になりたい」と思う側の問題も山積みです。

けれど、「漫画家志望者」の努力にも関わらず、雑誌にその作品が載りにくくなっている度合いが、もう限界を超えています。

例えば、多くの雑誌は、その雑誌の増刊号などに新人の作品を載せるために、「コンペ」という名の、ネームの見比べを行っての、掲載の決定の手順を取ります。

そのコンペの手順が、前述のような、「根回し要素」満載のものであるのですが、まあそれはよいです。「根回し」をしてもらうだけで雑誌に載るのなら。

ところが、そのコンペを経て、雑誌に載る機会が、あまりに少ないです。
どう考えても、以前にこの作品が載ったのなら、今回のこの新人さんのネームのクオリティで通らないわけはない、というネームが通りません。
実際に、そのことを編集者に質すと、
「掲載枠、つまり新人に与えられたページ数の枠がこれだけに限られているので、今回は仕方がなかった」
という答えが返ってきます。

ていうか、今、そうした新人中心に漫画を掲載してくれる「増刊号」や「別冊」を出してくれる雑誌が、ほとんどありません。

また、ある雑誌にはこうも言われました。

作品そのものが面白かろうと面白くなかろうと、雑誌の枠に余裕がないので、少なくとも今から半年ほどは、掲載のしようがない。

雑誌に載るかどうかは、面白いか面白くないかでは判断され得ない状況になっています。

また、編集者の提案に従って、とあるネタでの新連載の企画を打診された新人さんが、1年単位の時間をかけて取材を進め、ようやく描き上げた連載用のネームの第1作を見せたら、編集者の意向に合わなかったようで、その場で「やめよう、この企画」と言われ、すべてをチャラにされたことがありました。

雑誌の編集長に連載のゴーサインと確約をもらって、原稿も描き始めていたのに、その原稿を描いている間に人事異動で編集長の交代があり、新しい編集長にその連載を渋られ、そこまでに描いていた原稿分の原稿料を渡され、連載の話をなかったことにされた新人さんがいます。

企業の「就職内定取り消し」が騒ぎになるなら、これだって立派な「口約束の保古」「契約違反」です。
「雑誌への連載の約束とゴーサイン」は、「編集長」を代表とする、出版社、編集部となされたモノではないのでしょうか?
「単なる個人」としての「編集長や編集者」との約束だったのなら、これほど無根拠なモノはありません。
そんな無根拠なものを信じて、希望と喜びと共に、新人さんは彼らに自分の人生を切り売りしてしまったのです。
そうしたことへの異議申し立てをさせないために、「手切れ金」的に、そこまでに描き上げた原稿料にあたる金額のお金を受け取らされるわけです。
相手の出版社には「金を受け取ったのだからこの話はおしまい。文句を言われる筋合いはない」という言い分が成立するのでしょう。
明日のお金に事欠くような新人さんの中で、いったいどれだけの人が「ふざけるな!そんな金を受け取れるか!」といって、お金をたたき返してその場を去れるでしょうか?
出版社という大企業、そこに属す人間が、どのようにその新人漫画家さんのプライドを傷つけたかは、傷つけた側は想像出来ていません。
その思いを、どうすることも出来ません。
相手が大企業で、こちらが名もない個人だから、ただ、泣き寝入りするしかないのです。

それを忘れていないと思ったら大間違いです。
呪っていないと思っているなら、気楽なものです。
直接の当事者でない自分でも、思い出せば今でも血が逆流しそうになるのですから。

出版社と雑誌と編集者に、自分の身を委ね過ぎていると、そうした目にいつあわないとも限りません。

今、「漫画」に関して、たくさんの問題が表面化しているのだとしたら、
そうした呪いの数々の「ツケ」が、吹き出している、ということです。
「システムの傲慢」と「個人の無自覚」が、溜まりに溜まって、崩落寸前になっている、ということです。

自分は、自分のスタッフさんの先行きが気になるので、皆のネームを見せてもらって、可能な限りの助言をしたり、現在の状況を聞いて、考えを述べたりということをします。
そうしたおせっかいは、自分なりに、報われる真っ当さを持っていると考えてやっています。

そうしたおせっかいや助言も、甲斐なく終わってしまうことが多くあり過ぎました。

なんで、この新人さんの、こんなに面白いネームが通らないのだろう?・・・と思うとき、それでもまだ、相手の雑誌や編集者に、その人の作品の未熟だけを理由とされるなら納得も行きます。
しかし、こう言われるのです。
「枠があったら載ったかもしれないクオリティだが、枠がないから載せられない」・・・と。

漫画のネーム1本は、本当に、描いた人の寿命を削って描かれます。

それが、漫画そのものが面白くないという評価なら、あきらめましょう。
しかし、「面白いけれど、枠がない」と言われ、ボツにされるのです。

決まっていた掲載が、手切れ金を渡され、反古にされるのです。

1年以上という、一生の現役労働時間の何分の一という時間を使って、編集者に言われるままの題材を描いたネームを、たった1稿目の出来を気に入らないからと言って、気まぐれにチャラにされるのです。
来月も給料をもらえる会社員に。
そのことには自分は抗議をしました。
そうしたら、その編集者は、自分にコトバを返してきました。
「その新人のことは、これからも自分が責任を持ってしっかりケアするのだから、余計な口出しをしないでもらいたい」「あなたのやっていることは越権だ」と。
本当にケアを続けてくれるのなら、その抗議も真っ当だし、甘んじようと思っていましたが、その編集者がそのあと、その新人さんに連絡をしてきたことは一切ありませんでした。
面倒クサくなったのでしょう。

人は、来月も給料をもらえる範囲においては、何でもできてしまうのです。
たとえ、こちらの来月の生活が立ち行かなくなるようなことでも。

国家に雇われた軍人は、雇われている、給料をもらえるということで、他国の人間を殺します。

そのことを、会社員である編集者個人を相手に責めたいとは思いません。
兵隊を責めても仕方がないのです。

これは「システム」の不良、「システム」の期限切れの問題です。

例えば、自分の、どうにもならない気持ちが向く先は、載せられるクオリティの漫画を描いても載せてくれようがない、漫画雑誌の「システム」です。
「会社員である編集者個人」は、その「システム」の末端に過ぎず、ひとりでは納得がいかないかもしれないことも、仕方なく実行するしかない役割を背負わされています。
そうした時の編集者は、同じく、うまくいかなくなっている「システム」の、犠牲者のひとりです。

作品は面白いのに、ボツにされる漫画と、その漫画を描く人と同じように、「システム」の犠牲者です。

ならば、その「システム」をどうにかしたい、という思いを誰かが思い至っても、理不尽なことではないはずです。
まだ見ぬ、理想的なシステムが思い浮かんで、それをかなえられるなら、かなえて、試みてみれば良いはずです。

片方に、「システムの崩壊」と、そこにどうしようもなく居続ける人がいます。
もう片方に、「ひとりで」生きて行かなければいけないはずなのに、そうした相手先のシステムの崩壊に無自覚なまま、システムや、システム内部の人に自分を委ねてしまっている人がいます。

感情が抑えきれず、本項では「システム」への不服を述べてしまいましたが、本論は、システムへの異議申し立てを目的にしてはいません。
本論を自分は、「システム」についてではなく、「システム」に対峙する「個人」の側に向けて書いています。
本論は、「ひとりで」生きて行かなければいけないはずなのに、そうした相手先のシステムの崩壊に無自覚な人に、「それじゃあヤバいんじゃない?」と伝えることを目指しています。

「個人」でありたいくせに甘えている人も、また、「システム内部の無自覚な人」と同じくらい、存在します。

「システムの堕落」と「個人の甘さ」は、両方とも、なんとかしなければなりません。

本論は、「個人の甘さ」に光をあてて、「もっとみんな、自分のことなんだから、人に委ねず、しっかりした方が良いですよ」と伝えることを目指しています。

新人作家の努力を保古にする編集者や雑誌や出版社に問題があるにしても、そうした相手に、なす術もなく殺されてしまう漫画家志望者にもまた、問題はあります。
「その程度の意識でのこのこ出かけて行くから、大変な目にあうんだよ」
「そんな、考えないで描いた漫画を持って行けば、ひどいこと言われて当たり前だよ」
そうしたことは、残念ながら、ものすごくたくさんあります。

「システム内部の無自覚な人」である、出版社側の人間も、「個人」でありたいくせに相手のシステムに甘えている、漫画家志望者や漫画家にも、どちらにも問題はあります。

過去にも、「漫画家」対「出版社」という出来事が生じた時に書いたように、そうした問題は、おもてツラをとらえて、「やはり出版社はしょうがないな」と片付けようとしても、「漫画家がわがまま言っているだけ」と済まそうとしても、終わる話ではありません。

「システム」への異議申し立てと、代案の立案が不可欠なのです。

「システム」の刷新、に関しては、本論とは別の方法と言葉で、それにあたることにします。
「掲載枠の多い少ない」に振り回されることのない、新しいシステムがあり得るなら、そこに漕ぎだしてみることを選択肢として考えても良いのです。
そうしてみれば、今までの自分のどこが「甘え」だったのか、どこが「真っ当」だったのか、わかるはずです。

こうしたことを考えなければいけない時期に来ているはずです。
とくに、これから漫画家になろうと考えている方には、今の漫画の「業界」の現状を知って、自覚的であって欲しいです。

話がそれてしまい、申し訳ありません。
しかし、ここに書いた、自分のココロからどうしてもはみ出して、カタがつかない感情が、本論すべての執筆動機でしたので、書きつづっておきたいと考えました。


とにかく、それでもとにかく、雑誌に最初の1作が載った、としましょう。
編集者の努力にもよって。
その、編集者の努力や、漫画への愛は、貶めて良いモノではありません。
感謝すべきことです。
それは、やはり嬉しいことです。
そして、そうしたことを経て、雑誌に載ったならば、そのことに対しては、素直に「おめでとう」と言いたいです。

次章。
その先。
雑誌に1本、漫画が載った先の話をしましょう。


少々充電をしたく 次のアップに数日間のインターバルをいただきます


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