一色登希彦/ブログ 

一色登希彦 ブログ / 三重県の小さな町に在住 現在は飲食店に従事 漫画描いてました

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#3世界中で「はなし」が通じなくなっている/F1アメリカGPのこと

 「実は誰もが、もう本当は何もかもをあきらめてしまっているのではないか?」という思いにとらわれることがあります。

 たびたび僕は、アメリカで起きた「9・11」と呼ばれる出来事がその後の自分たちにどのように関わっているのか、という命題にこだわっている、と書いてきました。
 「その後の世界情勢に~」ではなく、「その後の自分たちに~」です。



 「9・11」以後の自分たちは、「あの(テレビで目にしたつもりになっている)出来事を受け入れた」ということではなく、「あの(テレビで目にしたつもりになっている)出来事を最後に、何もかもをあきらめさせられてしまっている」のではないだろうか?

 難しい言葉を編んでお仕事をしている人たちの間では、
「大きな物語が崩壊してしまった世界」という言い方になります。
 簡単に言う(言えるかな?)と、「どう考えても最低限これだけはみんな同じように考えるだろう」という価値観が、すっかりバラバラになってしまった、ということです。
 (まんが等々を)「描くこと」と「ものを見ること」が実はほとんど同じ行為であるように、「奏でること」と「聴く事」が同じ行為であるように、「言葉を紡ぐこと」と「考えること」はほとんど同じことです。
 (余談ですが・・・「見ること」が「インプット」で、「描くこと」が「アウトプット」だというのは間違った考えで、例えば漫画家志望者で漫画家にまだなれない、といった種類の多くの人がはまっている「罠」です。漫画家さんはもちろんそのことを知っているけれど、その秘密に関しては親切でも饒舌でもないので、ほとんど誰も教えてはくれません。「はなし」がそれてしまった。このテーマはまた改めて。)
 
 「考え方がバラバラ」ということは、「言葉がバラバラ」ということです。そのために、「はなしが通じなく」なります。

 大きな新聞やテレビや雑誌のような「既存メディア」は、「9・11以降のテロの世界」を読み解く言葉を持っていません。
 アメリカの大統領の読み上げる「テロに付くか、アメリカに付くかだ」という暴論に対抗する言葉を用意出来なかった時点で、既存メディアは「失語」してしまいました。
 既存メディアの言葉に拠って「考えていた」つもりの我々も、同時に失語してしまった。

 「世界」が、おそらく20世紀終わりから「9・11」あたりまでを決定的な時期として、ひとつの臨界値を超えて、より複雑に残酷に高密度になってしまった。なのに、我々が使う言葉が、古い世界で使っている言葉のままなので、本当に正しくは「はなし」が通じなくなってしまった。
 古い言葉で新しい世界を言い当てているように見えてもそれは、実のところ霞んでいたり/歪んでいたり/痛みや責任が巧妙に取り払われていたり、何もかも「それらしく」映し出しているに過ぎなくて、的確な「映し絵」になっていない。
 テレビが映し出しているものが「世界」そのものではないのと同じくらいに無力に空虚に。

 で、そのテレビが映し出した2005年6月19日のF1アメリカGPです(どのような出来事だったかは、承知いただいている前提で書きます)。
 6台しか走らなかった前代未聞のグランプリで考えるべきポイントはいくつかあると思います。

 まず、「はなし」が通じていれば、あんな事態は本来避けられたはずなのに、避けられなかった。皆が、「(古い言葉とそのやりとりで)何とかなるだろう」と思っていて、最後まで何ともならなかった。その「何ともならなかった」姿を、テレビを通じて世界中に曝してしまった。
 「たかがスポーツ」という意見を信念を持って振り払うなら、F1グランプリは、人間が英知を結集してその能力を競う、「人間ってこんなにすごいんだ!」という事実を見せる最高の舞台のひとつであるはずです。
 それがよりによって、
 「人と人のやり取りって、話が通じなくなると、こんなにしょうもないことになるんだ」
 ということを曝す場になってしまった。

 もうひとつは、これもまたテレビを通して見ている者が想像力を失いがちな一面だけれど、実際にインディアナポリススピードウェイに観戦に行った人々が負った精神的な傷は、計り知れないということです。
 もし、僕が鈴鹿サーキットに、それも仲間/家族のような「楽しみを分かち合いたい存在」と連れ立って出かけてあんな物を見せられたら、どれだけ傷付くだろうと想像すべきだと思います。
 これまた、それを的確に言い表す言葉がないので見に行ったお客さんは「金返せ」という言い方にするしかありません。けれど、いちばんに考えるべきは、奇しくもアメリカという国で起きてしまったことだけれど、今回の出来事でお客さんが受けた傷は、「9・11」で多くの人が受けた精神的傷と根本のところで変わらない、ということです。
 「たかがスポーツ!」という意見を断固とした信念をもって振り払うならばね。

 彼らをあんな風に傷付けるべきではなかった。
どんなに利害関係が複雑に絡み合おうと、譲れない建前が互いにあろうと、「お金を払って集まったお客さんに、まともなレースを見せられなくなる事態だけは避けなければならない」という正義がとうとうなされなかった、という事実が、悪寒を伴ってのしかかります。
 「どんな理屈を並べたって人殺しはダメでしょ」という「はなし」が、通じなくなっていることと、それは根本のところで変わらない、ということです。

 せめて今回のしょうもない事件を、「もう古い言葉では話が通じないのだ」という事実を知ることが出来たという一点において有意義であった、としたいものです。

 「テロの後の世界」に通じる言葉、より複雑で残酷で高密度になってしまった世界に、それでも自身と世界(せめて目の前の大切な人)とを繋いで、両方を不幸にしない意志を持った言葉を。その言葉を編んで、外に開く「おはなし」を創ること、それが僕がたずさわっている仕事です。

 ギブアップを期待している連中の前で、「しかたない」なんて絶対に言わない。

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