一色登希彦/ブログ 

一色登希彦 ブログ / 三重県の小さな町に在住 現在は飲食店に従事 漫画描いてました

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#35 編集者/出版社への「ネガ」を、なるべく自分が言わないようになってしまった理由

 2回続けて、「漫画を描くこと」そのものからほんの少し離れた「漫画のこと」になってしまいます。

 ご存知の方が多かろうという前提で以下、書きます。

 漫画家の雷句誠さんが、小学館(そして実質的に「週刊少年サンデー」編集部と、その編集者)を提訴しました。
 
 こちらです
(リンクの可否が、ご本人のブログで確認出来なかった(と思う)ので、ひとまず無許可にてリンク張ります)

 あらゆる意味で、無関係なことではないので、現時点での自分の見解を書きます。



 雷句誠さんが、訴訟における「陳述書」で書かれている「事実」は、ほぼその通りの「事実」であろうと僕は考えます。

 そう考える根拠が、実際の経験として、自分にもあるためです。

 また、同じく雷句さんが「陳述書」で、「想像」として述べていらっしゃることも、大きく間違っている所はないだろうと、僕は考えます。

 それもまた、そう考える根拠が、自分に明確にあります。

 「この機会だから」と、過去に自分が実際に経験したり、見聞きしたことを口数多く語り始めてしまいたい衝動も、一瞬でしたがわき起こりました。
 が、それは、自分よりもはるかにそれを為すにふさわしい方が、勇気と明晰さをもって多くを語って下さっているので、安易に愚に走ることをせずには済みました。


 雷句誠さんの提訴/告発は、多くの問題を投げかけてくれています。


 雷句さんの怒りはもっともであるという立場において願うことは、問われた立場の小学館(そして小学館に属す当該組織/職種としての編集者)は、何が問題であったかという検証と反省と刷新を為して欲しい、ということです。
 この点、自分としては、ひとつ前の「週刊ヤングサンデー」誌休刊におけるコラムで表明した見解と同じです。

 間違っても、その「反省」ののちに、「社員教育」的に、「漫画家には失礼をしてはいけない」「ついては、漫画家には以下のような誠意をもって対応すべし・・・」「ついては、漫画家には以下のような言葉遣いを持ちうるべし・・・」といった「お達し」が、対応として出される・・・みたいなことのないように願っています。

 
 問題は、

どれだけ本当に「漫画への『建設的な』熱意」があるか・・・?
(追記/「漫画への『命をかけた』熱意」があるか・・・?
とした方が、話が後につながりやすいので加えます)

 という、自己検証が出来るかどうか、にあると思います。


 そのことが、表題にした、編集者/出版社への「ネガ」を、つとめて自分が述べないようにしている(つもり)理由と大きな関係があることなのです。

 
 雷句さんの怒りは本当に真っ当だと思う反面、自分にはひとつの懸念があります。
それは、雷句さんの怒りと告発に乗っかる格好で、漫画家・・・もう少し限定すると、漫画家になりかけ/なろうとしている人が、逆に、編集者/出版社を信用しない、軽く見る、という意識に自分自身を置いてしまいやしないだろうか・・・ということです。

 この懸念も、冒頭と同じく、そう考える経験と根拠が、自分には明確にあるからです。

 「漫画編集者が、漫画家そのものを軽く見始めた」という傾向が本当ならば、自分は、
 「漫画家を志す者が、その困難さと、仕事相手である編集者/出版社を軽く見始めた」ことに、同様の危機を感じます。

 大事なことを軽く見始めているのは、編集者/出版社に限らず、あらゆる所に巣食っていることではないのだろうか?

 
 自分自身の反省もあるのです。もう少しキャリアの浅かった時分に、編集者への不満を(思い返して、理にかなったことも理不尽なこともないまぜでした)、同じような立ち位置のキャリアの作家さん、あるいは自分のスタッフさんを含む「漫画家を志すひと」に、思うままにぶちまけてしまっていた時期が、いっときありました。
 そうすると、「漫画家を志すひと」は、我が意を得たように同調してくれ、それによって自分は、その不平不満が正当化されたように感じて気持ちよくなり、「悪口大会」が繰り返されるのでした。

 結果としてどういうことになるかというと、「漫画家を志すひと」は、自分の無能と努力の足りなさを棚に上げ、「自分がうまくいかないこと」の理由を、「漫画編集者がバカだから」「あの雑誌は自分の作風と合ってないから」といったことに求め始めます。

 雷句さんがおっしゃっていた、「編集者の信じられない暴言」が真実であるように思えるのと同じくらいには、「漫画家を志すひとのあきれた怠慢」も、真実です。


 懸念するのは、「雷句さんもああいっているように、編集者はひどい奴ばかりだから・・・」という論理を、自分の無能と努力不足に置き換えやすい傾向が生じやしないか、ということです(ていうかもう見た、それ、すでに)。

 「自己検証」の出来ない弱いひとに、「今、自分がダメな理由」に使えそうなネタ、この場合は「ほらみろ・・・どうやらやっぱり小学館はずいぶんダメらしいぞ・・・」というアイディアを与えると、安易な言い訳に逃げる事が出来て、そしてそれはえらく気持ちのよい事なのです。いっとき。

 「漫画の危機」は至る所にあって、雷句さんのおっしゃる「編集者/編集部の質の低下」も大きな要因だと思えますし、
 自分はまた自分の立場において、別の点、「漫画家を志すひとの意識の低さ」が、同じくらいに深刻だと考えます。

 何も出来ていない分際で、どうしてそんなに堂々としていられるのか、という人が多すぎる。

 どう考えても、自分と同じくらいにアタマ使ったり努力してみれば、どれだけ少なく見積もっても自分と同じような所までは来れるように思える才能が、
 何にもしないうちから口数ばかり多くなって、
 手を動かさなくなって、
 遊びに行っちゃうことが多くなって、
 飲みに行っちゃうようになって、
 なのに「業界のこと」に詳しいつもりになって、
 ちゃんと仕事してる人と対等にしゃべれている気になって、
 商業作品の盗作「同人誌」作ってあろう事かそれを換金して、
 商業誌の隆盛/休刊を人ごとのようにしか考えられず、ことによっては笑いのタネにして、
 
 そして、仕事上のパートナーとなるはずの編集者/雑誌/出版社に敬意を払わない、

 そのようになっていくのを、イヤになるくらい(もうイヤになった)見聞きして来ました。

 上のような事は、お金を払って漫画を消費している「読者さん/お客さん」ならば、為してよいことです。
 好きな漫画を選んで良いし、面白くない漫画があれば文句言って良いし、得られた情報から、漫画や漫画家や雑誌のウワサや好き嫌いを語り合ってくれて良い立場の方々です(モラルや限度は、美学の問題として、在るべきですが)

 「軽く見始めたのはどっちが先だ!?」とかは、どうでもよいです。

 自戒を含め、「相手を、そしてひいては自身の才能や意欲やビジョンを尊重出来ない」危機が、そこかしこに存在していて、でもいくら何でもあんまり多くの人が簡単にその危機にとらわれてしまっている。


 そこのキミ、僕がやっている程度に1週間に1本ネーム描き続ければ、絶対面白いもの描けるから。あるいは面白くなっていくから。

 キミ、その雑誌を小馬鹿にするってことは、その雑誌に載って仕事している、好きな漫画家さんをバカにしてるってことだから。
 
 「誰も自分のこと認めてくれない」とか言う前に、沢山の「ちゃんと認められてるように思える羨ましいひと」がやっているくらいに、認められる努力をした後なら、キミの愚痴も聞いてあげるから。

 
 雷句誠さんの怒り/告発に、心情的にほぼ賛同するものですが、自分は、むしろその告発に乗っかるような未熟(自分も含める)によって、「漫画を描いて生きてゆきたい」と言っているひと自身の怠慢が増長されることがないように願います。

 そうしたひとの、そうした怠慢は、なんと言われようと、
「編集者の暴言」が存在するのと同じくらいに、
間違いなく存在します。

 漫画の危機が在るとしたら、雑誌/編集者/編集部/出版社・・・だけにその要因を求めて収斂する傾向になりませんよう。

 「漫画家」は、漫画が作られる作業の中で、最も尊重されるべき存在のひとつで、それゆえ、その存在になる為に、その存在であり続ける為に負わねばならないものは重大です。

 命かけてくださいな。

 そうじゃないひとは、去ってくれた方が、互いのため、世界のためです。
「人間失格」と言われているわけではないのだから、去って、のち、生きてゆける世界が在るわけです。「逃げ場無し」で自暴自棄になる必要もない。
 去った先の新しい世界ではキミは、キミなりに、愛嬌のある、頼りがいのある、人好きのする、もしかしたら結構モテる、ずいぶんスキルの高い、「あ、自分ここに居ていいんだ」と思える人生ですよ。よかった。

 
 一連の困った事は、命かけているのかわからん人の紛れ込み率が増えたから起きている事態だと思います。
 「命かけているよ」と言えたり、思っている気になっているのと、
 「本当に命かかっている」のは、違います。


 それの違いはわかるようになってきた。

 命かかってないひとに優しくなれなくなって来て、さびしいことです。

 ホントすまんね、器、小さくて。


 
追記
 
 多分あんまり格好よくない形で、追記していきます。

 漫画が創られてゆく過程の話で、専門外の方にいちばん驚かれるのは、
「そんなに編集者(その他)が、制作過程で口を出しているんですか!?」ということです。
 
 口、出してます。
 
 もっとフェアを心がけて本来的に言うと、そのようなことを含めて、色々なひとの助けがないと、(例えば週刊漫画誌であれば)週に1本という異常なペースで漫画が創られてゆくのは不可能です。
 作画を手伝ってくださるスタッフさんの存在が不可欠ですし、担当編集者とはまさに二人三脚の形で「ものを創ってゆく」やり取りになります。
 
 自分の知っている限り、
「編集者との打ち合わせもなく、まったくひとりで考え出したアイディア/ストーリーを、白い紙の状態から すべてひとりで原稿を仕上げきる」形で創られる週刊連載の漫画(4コマや、変則的に短い作品は除きます。20ページスケールの連載作品に限って述べています)は、存在しません。
 もし存在したとしても、きわめてまれなケースであることは間違いないです。

 漫画作品は現実的に漫画家ひとりでは出来上がりません。
 けれど、漫画が創られるために、漫画家はやはり交換不可能な職能です。
 
 アメコミ的(雑な分類ですみませんが)に、あるいはハリウッド映画的に、物語の様々な要素を分業して、アイディアは誰/シナリオは誰/レイアウトは誰/ペン入れは誰/色塗りは誰・・・としてゆく方法もありますが、日本の漫画はそれとは独自の創られ方が(少なくとも今は)メインです。

 上のような膨大な各セクションの作業を、漫画家ひとりがすべて負うのです。
先に述べたように、1から10まですべて自分ひとりで行うのではないにしても、それらをコントロールし、ジャッジし、最終的には「個人の漫画家、だれそれ」というクレジットの元に、世に出ます。

 漫画に対する海外のクリエイターからの評価が高いのは、そうした「信じがたい作業密度」が作品からにじみ出ていることが、要因のひとつだと思います。

 本コラムを書く端緒となった、雷句誠さんのお仕事のようなレベルの作品が毎週作り出されるのは、もう奇跡のようなものです。
 加えて商業的な成功がともない、版元である出版社に多大な利益をもたらした作品です。
 著者である作家さんの命のかけ方に見合う仕事の向き合い方を編集者が為していない、と作家さんがおっしゃるなら、そしてそれを告発するほどに我慢の限界が訪れたなら、それらはすべて
「漫画にとって(漫画家にとって、ではないです)正しい」ことです。
(漫画家さんが、いきなりキレたわけでは、絶対にないです)
 雷句さんの望むレベルの仕事が出来る編集者を、出版社はどうやっても手配し、担当につけるべきでした。
 有能な編集者をはずされ、無能な編集者が当てられ、その無能な仕事相手と二人三脚する羽目になったら、それは本当に死活問題です。

 雷句さんが「陳述書」で述べている、新人漫画家さんの悲惨は、そういうことを言ってらっしゃるのだと思います。
 
 編集者に関わらず、漫画家(になろうとしているひと)に関わらず、
「無能と怠惰」が重大問題だと思うのは、どちらかが無能であったり、また、
どちらかがどちらかを無能だと軽く見た瞬間から、二人三脚がいびつになり、
「漫画にとっての不幸」が始まるからです。

 編集者がその名も出ることなく、しかし実際はシナリオの詳細まで毎週緻密に書いていたとしても、
 作品の描線が、大部分スタッフさんの手になるもので、「漫画家」は目だけ最後に描き込むのだとしても、
 そうしたことは全部良いことです。
 漫画が面白ければ。
 そして、仕事上の二人三脚がしっかりと行われていれば。

 「魂のない」、といった情緒的表現を可能な限り使わないようにしてきましたが、「魂のない漫画」は存在します。
 それは、編集者が、漫画家の領分を軽く考え、思い違いをし、「漫画家でなくては出来ない作業」を肩代わりし始め、口を出し、罵倒し、恫喝し、「キミは言われた通りに画を描いていればいいんだよ」と、
 漫画を「生産」し始めるような場所から湧き出て来ます。

 本当に覚悟を持って、そこまでやるのなら、もはやアメコミ式(雑な分類ですみませんね)に、「関与」したひとはフリーランスの漫画家であろうが、企業所属の編集者であろうが、等しく全員の名前をクレジット(ちょっと補足/「著作者」ということです)に掲げれば良いです。

 編集者の言動に傲慢が現れるのは、「自分の助け無しにはあいつの作品は出来ないのに、あいつだけもうけて、自分は名も売れないで納得が行かない」というココロの深い所にある思いが、形を変えて態度に現れた時なのだと思います。
 
 ならば、名を出してあげて、出版社は担当編集者には、相応の報酬を与えて、責任を負ってもらえばよいです。
 
 (単行本印税の、出版社取り分から、担当編集者に分配があればよいのではないか?そうすれば、「売れたら売れた分の報酬が入る」ではないですか)
 
 名を出して、衆目に晒され、身を削って物語を創ってゆくことの苦楽/恍惚と不安は、その時ようやくわかるでしょう。
 今回の雷句誠さんの提訴で、編集者個人の名が挙げられたことは、そうした意味を持つものだと僕は考えています。
 
 第三者は、今回名が挙がった編集氏の名をあげつらうことで、「悪い奴ら代表」として話をくくってしまうことのないよう、自分は願います。

 漫画の創られ方のシステム、それをホントにこれからどうするんだ、という命題に到達することが、雷句さんの提訴の意義だと思います。

 
 編集者は、漫画家とは違うということは、編集者にわきまえてもらいたいことです。
 
 同様に、漫画家をやるには、漫画家なりの命のかけ方があって、それをわきまえない「漫画家をこころざすひと」が多くなれば、それを編集者に見透かされ、なめられ、
「これだったら自分が全部考えて、こいつに画だけ描かせればいい」と思わせてしまう傾向を助長するのです。

 編集者は漫画家の仕事に敬意をもって、
 漫画家は編集者の仕事に敬意をもって、

 当たり前なのですが、
互いに敬意を持って仕事はなされなければならない。

 当たり前のことを言わざるを得ないところまで、事態が進行してしまったのだとしたら(してるのですが)、ネット等で書かれているように、他の業界の「告発事例」と同じことで、これは場当たりの対応で済ましてもらって良い事態ではありません。
 絶好の機会、大事なチャンスなのだと思います。

 提訴の通りのお金払っておしまい、になって欲しくないし、

 それから、「やっぱり小学館はダメになってる」という論調で括られることも、実態を見えなくさせてしまうと思います。

 ことは、小学館の一部の問題ではないです。
 
 雷句さんが「漫画が・・・」「漫画が・・・」とおっしゃっていることの意味を、皆が自分のこととしてしっかり考えねばならないのだと思います。

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