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一色登希彦 ブログ / 三重県の小さな町に在住 現在は飲食店に従事 漫画描いてました

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借りぐらしのアリエッティ 観た 感想

「借りぐらしのアリエッティ」を観ました。

面白かったです。名作ではないかもしれないけど、とも思いつつ。

はるか「ゲド戦記」以上になっていて、
ちょっと「耳をすませば」未満かな?

・・・という結論に持っていきたい前提で少し推測交じりで感想を書きます。

続きは「ネタバレ」含めて好き勝手に書いているのでご承知を。


崖の上のポニョの感想も公開当時きまじめに書いたので(こちら)、今回も作り手の端くれ目線を多々まじえて書き連ねます。

監督は、スタジオジブリ作品で多々作画の要職をこなしてきたという米林宏昌さん。
宮崎駿さんは、「企画・脚本」とクレジットされていた。

作品の質が「ゲド戦記」以上なのは間違いない。
「ゲド戦記」が駄作であることの責任は、あんな監督に作らせてそれを世に出してしまった、出すしかなかった「プロデューサー」(鈴木敏夫さん)にあると思う。

ただ「耳をすませば」には届かなかった。
監督としての資質は、「耳すま」の近藤喜文監督と「アリエッティ」の米林監督は肩を並べているように見える。

目にすることが出来る制作体制から類推すると、「耳をすませば」と「借ぐらしのアリエッティ」の大きな違いは、宮崎駿さんが絵コンテまでを描いているかどうか、という点ではないだろうか?
(「耳すま」は実質宮崎駿さんが絵コンテを描いていて、「アリエッティ」はおそらく描いていない)

「宮崎駿が絵コンテを描いているかどうか?」が、実質もはや「ジブリ映画」の出来不出来を左右している。
逆に言えば「ジブリ映画」の出来不出来の秘密は、「宮崎駿が絵コンテを描いているかどうか?」にあるのではないだろうか?

仮説というほど大袈裟なことではないけれど、自分はそのように思う。
同じようなことは庵野秀明さんも言っていて、「宮さんの最高傑作は絵コンテ」と言っている。自分もその点には最近とても合点が行く。

補足/宮崎駿さんの演出能力は、本人が現場にいることと、あと、絵コンテを読めばわかるのだけれど、演出意図は絵コンテにそのほとんど全てが書き込まれていて、そのふたつがあれば、完璧な「宮崎アニメ」になるはず。だから「宮崎駿が描いた絵コンテ」があれば、宝の半分は手にしたことになる。との仮説を提出したかった。

「出来の良いジブリ映画(宮崎アニメ)」の核は、宮崎駿の直筆した絵コンテと、宮崎駿本人の現場演出にあるのだろう。

宮崎駿監督作には、もちろんその両方があった。
「耳をすませば」には、宮崎駿の描いた絵コンテがあった、そして演出能力が備わった監督がいた。
「借ぐらしのアリエッティ」には、宮崎駿脚本はあったが絵コンテはなかった。演出能力が備わった監督はいた。
「ゲド戦記」には、基本的な演出能力さえ皆無の監督と、その事実を見逃したプロデューサーしかいなかった。スタジオジブリという資源はあった。

米林監督には、ある程度の演出能力は備わっていたかも知れないけれど、宮崎監督のような超人的な突き詰め方には及んでいなかった。

宮崎監督作以外のジブリ作品に過剰に期待して観始めて数分ですぐに気付くのは、観ている側が集中力を発揮しないとすぐに退屈になりそうになる、ということだ。
いかに宮崎監督作が余計なことを考えずに楽に作品に集中出来るものなのかということを思い知る。

出来上がったモノを批判するのは簡単で、作り手の端くれとしては、「アリエッティ」を観ながら、「宮崎駿ならこうしたであろう」という脳内変換をしながら観るのはそんなに難しいことではなかった。だから余計に、(自分と米林監督の実力差とか棚にあげて)米林監督と宮崎監督の実力差を思い知ってしまう。

同じ脚本を宮崎監督が演出したなら、スジが同じでもまったく異次元のダイナミクスを備えた作品になるだろう。それは簡単に想像できる。
けれど同時に宮崎監督が演出したら、これと同じ脚本というのはあり得なかったかも知れない。「アリエッティ」のこの脚本には、よく知られた宮崎監督の、「制作と同時進行で締め切りギリギリに向かって作られてゆく終盤の絵コンテ(脚本)」というモノが盛り込まれていないのだから。
ギリギリの締め切りの緊張感から、あの理屈を越えた異様な映画的魅力(あるいは無茶な風呂敷だたみ)が生まれてくるのであろう事は、僭越だけれど、とてもよくわかる。

補足/例えば「トトロ」だって、別にたいした盛り上がりのある映画ではないです。メイちゃんが行方不明になって、命に関わる危機があるじゃないかという意見も想像できますが、それはそれこそ監督の演出の上手さであって、ただ小さな女の子がちょっと迷子になっただけのこと。だったら「アリエッティ」にだって、本当はそんなレベルの危機=盛り上がりは沢山あった。そういう「危機」を、ドキドキするような劇的な盛り上がりに出来るかどうかが、「演出」なのです。


映画の中での、例えばアリエッティと人間の男の子の翔くんの、出会いや、行き違いや、共感や、別れは、脚本を書いた段階の宮崎駿さんの中には、「この人物達は、この場面はこうであれ」という情動が、間違いなくあったことがわかる。
米林監督は、その脚本に込められた物事への思いが少しだけ(本当に少しだけ)薄かったり、理解が弱かったり、そこまであまり共感していなかったり、ということだ。
その、人間としての演出力の弱さが、少しずつ引き算となって、作品からダイナミズムを削いでゆく。かろうじて、「面白かった」という所には留まったと思う。悪くは無かった(「ゲド」はもう悪かった)。

補足/例えば、ドラマの中でアリエッティや翔くんへの危機をもたらす役目になる家政婦のおばちゃんを、米林監督は、どのような人物であるか、完全には脚本レベルの時点でつかまえきれてはいなかった。
なので、少し、類型的な「悪意を持った悪者」に見えるように描いてしまった。描くしかなかった。
けれど、あの家政婦のおばちゃんは、悪意をもった人物ではないはずなのだ。無邪気な、そして善意で全てを為していた、「善良な人」であったはず。
家政婦のおばちゃんは、善意で、そして職能意識(プロ意識)で、家に害をもたらす「ナゾの小さな生物」を駆除しようとしていただけのはず。
砂糖を食べるアリが家の中に進入していたら、家政婦さんだったら駆除するでしょう。
お預かりした、カラダの弱い、人様の大切なお子さんが「小さなばっちい生き物」を家の中に持ち込んだら、そのお子さん本人を出来るだけ傷付けないようにしながら、その「小さなばっちい生き物」を駆除するでしょう。
そうした視線での演出が出来ていなかった。
「善意の人が、危機をもたらす」という事実に、米林監督自身が、耐えきれていない。
表現の中で、その認識を貫くのは、すごく残酷なことだ。米林監督はその残酷さには耐えられず、あるいはその残酷さは知らないので、あのような、「主人公達に危機をもたらすモノは、悪意あるモノに決まっている」という文脈で演出をしてしまった。
そうしたことが、作品から引き算をしてしまっている。作品を少しずつ薄っぺらくしてしまっている。
そして、米林監督に決定的なのは、観客と向き合っていないという点だ。
自分の名前で観客に身を晒していない。
例えばエンディングの間の悪さなどを見て感じる。
劇場での観客の余韻や、呼吸を、思い描いていない。
それはつまり、「必死」で、今作を何としても受け手に届ける、という覚悟が弱いということだ。
なので、受け手が努力して、集中力を使って、作り手の意図を汲んであげないといけなくなる。
宮崎監督作でないと、ジブリ作品は観ていて疲れる、と書いたのはそういうことだ。客に努力を強いることになる。
これに関してはもう、才能の問題なのでどうしようも無い。もしも米林監督が、今後も監督をやりたいなら、その不足を、自力か、他力を集める努力をして埋めなければ、今回以上の作品にはならないだろう。


繰り返すけれど、出来上がったモノをこんな風に好き勝手に批判するのは簡単だ。苦闘して米林監督がここまで作り上げたモノを、金だけ払って目の前で呑気にビール片手に観ながらでも、作り手の端くれとして「俺ならこうするな」とは思える。
そしれそれは、間違いなく目の前の「アリエッティ」に上積みして、少しだけ「感動的な」「佳い」映画になる。それは自分に限らず、漫画であっても「演出」を意識したことがある作り手なら、この「アリエッティ」くらいに佳く出来た作品を観れば、簡単に多少の上積みが出来るのは、間違いない。あとから好き勝手に言う、いわば足し算をする、その程度のことは、簡単だ。
例えばエヴァ「破」の劇場公開版からDVD(ブルーレイ)版となる時に、ずいぶん多くの場面でリテイクがされて、演出の質がとても上がっている。その中には実は僕も庵野さんからチェックの打診をもらって「自分ならこうするな」と申し上げた意見も採ってもらっていて、それが反映されている場面もあって、やはりとても質が上がっている(もちろん自分ひとりだけが意見したわけではないです)。足し算に参加させてもらったわけです。それは、カンタンなことです。
庵野さんが「アニメの現場というのは引き算、ダメージコントロール、いかに削れないで元の良い姿を保つかという作業」と言っているのは、連載漫画にも同じことが言えるので、それはとてもよくわかる。
状況さえ許すなら、足し算はカンタン。「エヴァ」の劇場公開版からDVD(ブルーレイ)版化の作業は、それを最大限に利用している。
漫画の単行本化の際の加筆訂正も、同じ事です。
そういうこともあって、「出来上がったモノに意見するのはカンタン」というのは、身をもってわかる。

だから、宮崎駿という後ろ盾やスタジオジブリという資源があったにしても、ゼロからこの作品を作り上げた米林監督は、よくやった、というか、ステキな作品を作り上げたと思う。
「金返せ」なんてヒドイ物にはなっていません、大丈夫(「ゲド」は「金返せ」の代わりに、見終わる前に席を立ってしまった)。

けれどこのポテンシャルの作品が、「2年(あるいは数年)に1本」のペースで作られる作品なら、ちょっと厳しい。
これが毎年、1年に1本作れるというのなら、「新しいジブリ」も見えてくるのではないだろうかと思うけれど。
こういった作品なら、1年に1本、観たい。観る事が出来たら嬉しい。
(奇しくも宮崎監督の「最終学歴」である東映の)「東映まんが祭り」が復活したらいいな、ということか、つまり。

それを為すにはまたしても、宮崎監督でなければ出来ないような、強烈な制作進行の能力が必要なのだろう。

いずれにしても、「実は宮崎駿だから出来ていた事」の呪いのようなものから果たして「ジブリ映画」が抜け出せるのかなあ、ということをまた色々考えました。

当事者さんたちにしてみれば、あまり猶予のあることではないでしょう。
どう楽観的に考えても、今後、今まで観てきた「宮崎アニメ」の数ほどに「新作宮崎アニメ」を観られるわけはないでしょうし。
質の高いアニメ映画は、残りたいなら残ってくれると、ファンは嬉しいです。

「アルプスの少女ハイジ」を、「未来少年コナン」を、なんと毎週観る事が出来た時代が一瞬でも、過去、あったのだなあ。

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