一色登希彦/ブログ 

一色登希彦 ブログ / 三重県の小さな町に在住 現在は飲食店に従事 漫画描いてました

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#36 おそろしい・・・/『崖の上のポニョ』を観た

 『崖の上のポニョ』を観ました。

 おそろしかった。



 公開初日に書いておりますが、たとえ今後この映画が、
歴代の宮崎駿さんの作品において最高のヒットになっても、
新たに日本映画史上最高のヒットになっても、
それほど驚きはしないと思います。

 そうならなくても。どちらでも。

 予告編を映画館で一度観てしまったことを除いては、まったく前情報なしで
観に行きました。
 あ。ずいぶん前にNHKでやってたメイキングみたいなのは見た。



 このブログの最終アップの前に今、ウェブで、見てきた人々の
「レビュー」というやつをつらつらと拝見したのですが、
褒めそやすのにも、こき下ろすのにも、みんな大変そうだなあ・・・



 あ。それた、ハナシ。
観ました。 
 びっくりした。すごかった。おもしろかった。


 新しい映画が眼前にありました。

 あれを、67歳(らしい)のもはや「じいさん」と言ってよい歳の人が
創り上げたのだと思うと、倒れそうになります。倒れませんが。


 作品がどのように素晴らしいのかあるいは素晴らしくないのかは、
これからも色んな所で語られるだろうし、まあ、ご覧になってください。
 作品そのものを。
 あるいは評判/批評/感想を。


 じいさんが、新しいモノを創る。
前作と様子の違うモノを創り、その完成度が半端ではない。

 一体どういうことなのだろうか。

 色々なことが「新しい」のですが、
例えば端的に言うと、映画の最終的な「見てくれ」が新しいし、
前作までと様子が違いました。

 それをかなえてしまうことが、すごい。

 たとえば、背景の画の線が、すべて、直線が無くて歪んでいるのです。
背景の色が、単色でなくて、いちいちオリジナルの共通文脈で描き込まなければ
描かれ得ないものになっています。

 取って代わって、人物の線は、シンプルで、おそらくは作業として
面倒なことになるであろう「影」も付いていませんでした。

 そしてそれが、映画の中ですべてにわたって破綻無くバランスしている。

 誰かひとり(この場合宮崎駿さん)が、ひとりだけで描くモノなら、
破綻の無さはもちろん理解出来ます。
 でもきっと、それでひとりで創っていては、何十年かかっても、1本の映画も出来ない。

・・・つまり、集団作業でアニメーション作りをするしかないわけですが、
そこでは徹底的な自己把握と周囲への意図説明と周知がなされたはずだと
思うのです。

 背景が歪んでいる、ということは、パース(透視図法)の言語で
スタッフに指定する以上のことをやっているのだと想像出来ます。

 専門的になりすぎるので、すみませんが端折ります。
パース/透視図法というのは、
「消失点はここ。それを元に、遠近感を含む、
立体物の構造を画にして行ってください」と言いやすい、
絵を描く際の、約束事のひとつです。

 漫画の製作現場でもあることなのですが、背景やレイアウトを
指定したり共通理解したりする際に、透視図法(パース)が多く使われます。

 透視図法は共通言語として大切なのですが、
パースパースと言っているうちに、パースが「本当に」何を意味するのか、
あるいはパースが「方法」のひとつに過ぎなくて、
パースに取り込まれ得ないものが
あるということを、どうやってスタッフに説明し、共通理解するのか
・・・といった問題が常にあります。

 パースでしかものを考えなくなると、いちばん陥りやすいのが、
「パースが狂ってるからダメ」という思考です。
 多くの人がそう言うのを見てきました。
天才的に身につけているわけでもないのに、パースの原理の根本になる
カメラのことも、レンズのことも、自分の眼のことも理解していないまま。

 逆に、自分のイメージを大切にする人は、得てしてパースを
理解しようともしません。
 「自分のイメージを、画一的な線で壊したくない」という思考かと思うのですが。
はなからパースをバカにしたり、拒否反応を示します。
 
 パースは理解した上で、自分のイメージを貫く、という所に
到達するのは、簡単なことではありません。

 漫画においては、パースにとらわれすぎると
「誰が描いても同じような、つまらない背景」に成り下がるし、といって、
「線の味」を大事にするばかりで、パースの言語のような共通言語を
見つけないままですと、商業誌連載のような「常時大量生産」は不可能です。

 それは、商業アニメにおいては、なおさらでしょう。
と、想像は出来ます。

 パースを使わず、また、単純に「ここは(単色で)なに色」という指定が
出来ない画作りをする作業は、いままでの「ツーカー作業」が通用しない、
大変な労力が必要なはずなのです。

 そうまでして、つくろうとした。

 つくらないわけにはいかなかった。

 その作業に隠された宮崎駿さんの執念と、
おそらくはネガな感情を含めた様々な感情と、
その反面多分、それを常にはオモテに出さない忍耐力/我慢強さ/粘り強さ
・・・そうしたものの底知れなさを思うと、

 おそろしい

・・・という気持ちになります。

 
 自分は観客ではなく、物語作品を創る身であるから、
他者の創った良い作品に触れても、そうでない作品に触れても、それらからは、

 「いいから。それで、お前はどうなんだ?」

 と、問われます。

 言い訳を許さない作品。

 は、おそろしいです。

 言い訳を許してくれないですから。

といって、自分とは関係のないもの、

 「だってあんなすごい人の創るすごいモノだもの」

と思って言ってしまったら、その時点で地にまみれて
おしまいです。

 宮崎駿さんは、フォロワーからの賛辞を今さら
欲しているわけでもなかろうと思います。
 
 かといって、同じたたかいの場にいる者が、

 「いやー、それにくらべて自分は・・・」

と言うのを、断じて許さない人だろうと思います。
僕ももちろん許さないけど。

 すごい人の光を浴びてしまいながら、
自分は自分でいられるかどうか。
 
 キョロキョロ迷ったり、苦悩を楽しんで言い訳を探したりせずに、
その人がそうしているみたいに
一心不乱に打ち込めるかどうか。

 同じ場に立ってしまったのだから、
そうして、殺されず死なず、生き抜くしかないということです。
 その舞台で弱っていって、ゆっくり人間でなくなって行ってしまうのが
いやならば。

 
 『崖の上のポニョ』は、シンプルな線で、可愛らしく、けれど多彩で、
楽しく驚きながら観れる映画だと思います。
 
 だけどこれを作った宮崎駿さんという人を思うと、おそろしい。

 だって、ストーリーも、あのキャラクターの造形も、各場面も、ディテイルも、
変ですよ。
 変だし、生半可な創り方をしたら、多分、意味不明のものになります。
 それを、脈絡のあるものとして観れてしまう、そこに意味と楽しさと脈絡が
盛り込まれることのすごさ。

 ここ最近創られてきた映画(「千と千尋・・・」だったり、
「ハウル~」だったり)が、さまざま結実していることも興味深いです。

 僕は、自分のこういう驚きや畏怖が、ちゃんと自分の日々の
仕事の為になる仕組みを、自分の中に作り上げなければ
ならないのである・・・と思うのです。

 自分と関係のない人の創った、すごい映画・・・でもないし、といって、
「じゃあすごい人がすごいもの創るから、もう自分は無意味」とか、
過剰な苦悩にまみれるでもなく・・・。

 
 すごかったんですよ。


 頑張ります(ああ・・・言っちゃった。陳腐を)。


 次はヱヴァンゲリヲンの 「は!」が楽しみだなあ・・・。

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