一色登希彦/ブログ 

一色登希彦 ブログ / 三重県の小さな町に在住 現在は飲食店に従事 漫画描いてました

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「漫画家のなり方」14

第3章 制作費や原稿料や著作権や契約書のこと

   その5 ならば漫画はもう分業でもよいか?

ここまで、「漫画を漫画家個人で製作することの困難」に、何度も触れました。
現在、漫画という表現を、漫画家個人で週刊連載のような形で継続的に続けることは、人間的に限界に近い負担を漫画家に求めます。

では、漫画を製作することを、漫画家個人に負わせることなく、いっそ効率よく分業にしてしまえばどうでしょうか?
漫画の分業を、どこまでできるのでしょうか?




実際、今の時点でも、編集者や作画スタッフが不可欠になっている以上、実質的に、「半、分業」といえるような状態です。
それでも漫画は今のところだいたい、著作者のクレジットとして、漫画家個人のみが名前を出す形で創られています。
アメコミがやっているような分業を、日本の漫画は正しい方法論として確立するべきでしょうか?

自分も、そうしたことを何回か考えたことがあります。
試みようとしたこともありました。
その試みがうまくいかなかった理由を考える時に、そこには「漫画はひとりで描くものだ」という考えとの葛藤が自他ともにあったように思います。

簡単に、他人のネーム(絵コンテ/漫画の下書きのようなもの)に、ざくざくとアカを入れてしまっていいものか?
そうした方が、確実に漫画が面白くなることがわかっていても、果たしてそうするべきなのか?
「アカを入れる」「アカを入れられる」という行為、つまり推敲するという作業は、やったことやられたことがある方ならわかると思いますが、漫画を描くココロの根底に触れます。
もちろん、正しい推敲であれば、漫画は確実に面白くなるのですが、だからと言って、それをずかずかとやっていいかというと、その行為をする前に、双方の深い信頼関係や合意が必要です。
このあたりがもっとシステマティックになれば、漫画は、分業や集団作業で生み出される表現になるかもしれません。

しかし、そうなったとき、果たしてそれは、自分が好きな「漫画」なのか?
紙の上にインクや墨汁で描くものだと思っていた、漫画の原稿作業の一部を、デジタルにするというだけで、ものすごく自分の手から離れてしまうような拒否反応を起こしかねない。
それくらい、漫画家は自作を自分と切り離しがたく感じているのです。
ネームのコピーであろうと、他人にアカペンで書き込みをされようものなら、死ぬほど苦しい、あるいは殺してやろうかと感じてしまうこともあるくらいに、切り離しがたいのです。
ちなみに自分は、良くなるアカ入れなら、まったく構わないと考えています。ナイスな推敲なら儲けものだし、的外れなことをされたら、「あ、この人わかってないや」と思えばいいだけのことなので。その時の客観性に限っては、自信があります。
その、推敲への拒否反応の度合いは人それぞれですが、そのようなわけで、
「複数の人格が寄り集まって創る」ことの難しさは、他の表現手段よりも格段にあるようです。

第2章でも触れたように、漫画が、個人的な表現手段である、ということとも関係があるのでしょう。
個人の想いを紙の上に焼き付ける、という種類の表現手段であることが、漫画の生命線なのだとしたら、やはり漫画は、どこまで行ってもギリギリのところで個人が個人の名前で製作するべきものかも知れません。

ただ、よく言われるように、キャラクターの人物線もスタッフさんに任せ、自分は最後に目だけを描き入れる、ということをする漫画家さんもいらっしゃいます、
それは、プロダクション形式で漫画を製作するときに、よくある方法です。
漫画の一般的な創られ方を知っている方ならば驚く向きもあるかもしれませんが。

他のジャンルではどうか?
そうした、分業を考える際には面倒くさい障壁は、例えばアニメーション映画、実写映画、等では、存在しないはずの障壁です。
また、アメコミはそうした作り方をシステマティックにおこなっているとききます。
集団作業で製作することが前提だからです。

漫画は、個人で描ききるべきのもか?

もしかしたら、漫画というメディアの多様性の中で、個人で描かれることが主流ではある中で、分業で製作される漫画というものが成立してくる、ということもあるかも知れません。

この問題も、これ以上の予測を言い当てることが本論の主旨ではないので、ここでは、問題提起として留めておくべきと考えます。
自分はこのことに関しては、今のところ明確な意見も立ち位置も持てないでいます。それぞれの可能性に想いを至らせるだけです。
もう少し時間が経たないと、答えを見いだすことは出来ないはずです。

ただ、ならば、個人的作業で極めるべきなのか?
今後、分業、集団作業できる環境を選択出来るチャンスが仮にあったとして、その時自分はどうしたいと考えるか?

それは、つね日ごろ、漫画を描くことをどう考えているかによります。。
こうしたことにも、自覚的でいる必要があります。
これから漫画家になりたいと考え、いずれ漫画家になる方、どういった製作体制を整えるかを考えなければならない立場の方は、なおさら自覚的であることが必要です。


ここで、冒頭の3章は一応の区切りです。
俯瞰しようのない大状況を、それでも俯瞰して書かねばならなかったので、大仰になった部分もあります。
何度かご紹介しましたが、ここで書いてきたことは、佐藤秀峰さんがご自身のウェブサイトで、同じ主旨の、よりリアルな話をさらに詳しく書いて下さっています。
「漫画制作日記」ページの、2009/3/28の「漫画貧乏」から始まる文章他で、読むことが出来ますので、そちらもどうぞご覧になって下さい。

次章から、本来は第1章として書き始めようとしていた、もう少し個人的な「こころがまえ」的「漫画家のなり方」をつづっていきます。


そう言えば・・・
みなさん、この文章の数々、毎日、アップする直前にドバーと書いているわけではないですよ。
ブログというものは、どうも、「書くそばからアップ」というとらえられ方をしているようで、
人から「よく毎日あんな文章書かれますね」と言われて、ハタと気付きました。

毎日毎日、こんなこと書いているわけではありませんてば。


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