一色登希彦/ブログ 

一色登希彦 ブログ / 三重県の小さな町に在住 現在は飲食店に従事 漫画描いてました

PREV | PAGE-SELECT | NEXT

≫ EDIT

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

| スポンサー広告 | --:-- | comments(-) | trackbacks(-) | TOP↑

≫ EDIT

「漫画家のなり方」5

第1章 漫画雑誌の終焉

   その3 漫画雑誌が果たしていた役割

      3 漫画家に締め切りを与えることができた

締め切りの存在に関しても、多くの功罪があるはずです。
締め切りは、漫画家に圧をかけ、生み出される作品に熱を込めるという役割において、大切なものです。

日本の漫画がここまで大量に生みだされ、そして高品質になったのは、労働基準法的観点あるいはグローバルスタンダード的労働観あるいは西欧的バカンス当然取るぜ的世界から見たら、狂気のような週刊連載システムのなかで、それでも漫画家さんたちが文字通り命を削って作品を生み出してきたことと密接な関係があります。



海外からの、日本の漫画に対する驚きと尊敬とあこがれの視線に実際に触れる機会があった時に、そのことは痛感しました。
「あ。日本の漫画は、週刊連載のような気違い沙汰から生まれ、磨かれてきたのだ」
と。

世界の中でも、日本の漫画が図抜けた進化をした理由はさまざまありますが、ひとつには、そうした週刊連載という人間の能力の限界に近い中での高密度な生産体制がありました。
その常軌を逸した重圧の中で、揉まれ、せめぎ合い、漫画家と編集者とが持てるあらゆるものをぶつけ合って漫画が生まれ、存在し、発達した時期が、確かにありました。
そうした世代の、そうした作品を読んで育った以上、自分にとって、漫画といえば週刊連載、という不動の思いはあります。
そして一方、あるときから、
「納得のいく作品を作るためには、もう、週刊連載では無理」であると考える漫画家さんが多く出てきています。

では例えば、週刊誌をはじめとして、仮に、世から紙の漫画雑誌がなくなり、漫画家と漫画作品が雑誌の「締め切り」のなかで研ぎすまされて行く、という鍛えられ方がなくなったとき、それでは漫画は、何によって、どのように鍛えられるのでしょうか?

締め切りに追われずに、完成時期を漫画家が自己決定できる、という状況が主流になると仮定して、そのとき、
「追い立てられずに、漫画家は漫画を描くのか?」
「追い立てられずに描く漫画の、量、質は、“追い立てられていた時代”と同質かそれ以上のモノになるのか?」

その答えも、モデルとなるケースも、まだ作られていません。

仮に漫画雑誌がその絶対的価値を失い、仮に漫画雑誌が多々衰退したら、その際に、漫画雑誌に替わる、新作を世に送り出すシステムが登場しているかもしれません。しかしそのとき、作者と作品に圧と熱を与えるような、漫画にとって今は大切な締め切りあるいはそれに替わる仕組みも、同じように存在していてくれるのでしょうか?


←前の項を読む続きの項を読む→

| 長期シリーズ/「漫画家のなり方」 | 00:05 | comments(-) | trackbacks:0 | TOP↑

TRACKBACK URL

http://toki55.blog10.fc2.com/tb.php/11-e4007c4a

TRACKBACK

PREV | PAGE-SELECT | NEXT

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。